山田詠美の小説やエッセイにはしばしば赤坂が登場する。特に『タイニーストーリーズ』の「GIと遊んだ話(三)」では詳細に当時のことが描かれている。そこで、ここでは作品に描かれた赤坂と現在の赤坂を比較してみたい。当時の写真はないが、今の赤坂から当時のことを想像してみるのもまた楽しいのではないだろうか。
作品に登場する場所をまとめてみたので、下記の文章からリンク先に飛ぶようにしてあるので、お楽しみいただきたい。

 そう、これは、キャンプ富士のゲートに並びたくても並べなかった、今でもちょっぴり口惜しさの残るいくつかのエピソード。話は、八〇年代前半に遡る。赤坂のホテル・ニュージャパンの火災が、多数の犠牲者を出した頃だ。並びにあった旧山王ホテルに向かう際に嗅いだ焼け焦げた跡の臭いを、私は、今でも、はっきりと思い出すことができる。
 当時、赤坂の夜に魅せられていた私たちにとって、米軍専用の宿泊施設である山王ホテルは、遊びの始まり、あるいは仕上げに欠かせない愛着のある場所だった。ロビーで待ち合わせ、バーで一杯やり、ナイトクラビングの後、時にはGIと同衾する。休日の昼下がりにはバフェスタイルのブランチをたらふく詰め込み、食休みのためにプールサイドでなごむ(チル)。エスコートと身分証明書さえあれば、日本人でも入れた。思えば、途中で止めてしまった私の大学の身分証明書は、そういった時にしか使われたことがない。
 私は、そのアメリカ情緒をたっぷり残した古いホテルを、とても愛していた。ところが、老朽化のせいなのか、近所のホテルの火災の影響なのか、はたまた日米の取り決め通りだったのか、ニュー山王と名を変えて南麻布に移転してしまったのだ。新しい建物は、前とは比べものにならないくらいに小綺麗で近代的だった。仲間に誘われて初めて訪れた時は、激しく落胆したものだ。そして、そんな私を、皆、不思議がった。
「そこまで、あのぼろっちいホテルに思い入れを持ってたのって、サキだけだよ。あそこって、今にも幽霊が出てきそうだったじゃない」
「でも、すごくエキゾティックだったよ? コロニアル風って感じでさ」
 二・二六事件の決起部隊の本部だったその建物が米軍に接収された時は、コロニアル風どころか、まさに占領下だった訳だが、遠く時を隔てた時代で遊ぶ私たちに、そんなことに思いを馳せる術もなかった。若いGIたちもそうだっただろう。誰もが、新しいホテルに女の子を呼べるようになったのを歓迎していた。
「ああ、山王ホテルの引っ越しで、私の華麗な赤坂の日々には終止符が打たれたよ」
「何、言ってんの。広尾駅の側でしょ? 車ですぐじゃん」
「広尾という街にはソウルがないよ」
「あー、ほんと、面倒臭い女!」
 と、呆れて肩をすくめるのは、親友の啓子である。仲間として認め合いながらも、個人的な生活についてはいっさい語り合わない人々の中、彼女とだけは心を許し合うようになった。年齢が近いせいだけではなく、家庭環境も似ていた。二人共、ドラマティックな要素など何もないサラリーマン家庭の出だった。変なところできちんとしているのが同じだった。赤坂見附駅前のハンダスバーガーで、暗黙の了解の元、割り勘にするところとか。庶民だねぇ、と顔を見合わせて笑うことはたびたびだったが、こと遊びにかけては庶民とは言えなかった。啓子は、山王ホテルの裏手にあるヒルトンホテルにパトロンを待たせて、そちらとこちらを行き来することもあった。
(中略)
「ま、譲歩しましょう。じゃ、一ツ木通りのヘンリーアフリカに八時ってことで。今夜は真剣に遊ぶぞーっ」
(中略)
バックシートに並んでいるのが、私と軍医の連れの若い海兵隊員。私たちの好みからうると当然だが、どちらも黒人だ。ムゲン(当時一斉を風靡した老舗ディスコ)でマルガリータを何杯か引っ掛けてている間に酔っ払い、意気投合して、今、何故か車に同乗している。

山田詠美「GIと遊んだ話(三)」『タイニーストーリーズ』p204〜208

★★番外編★★

山田詠美と赤坂近辺の繋がりはとても強い。他の作品やエッセイにもしばしば赤坂が登場する。そこで、番外編として、上記の文章には出てこないけれども、詠美とゆかりの深い赤坂の場所をいくつかご紹介したいと思う。